2009年02月04日

話のスタイル

昨日の夕方、そして今朝と、瀬戸市倫理法人会での二つのセミナーに法人レクチャラーの土屋さんに来てもらった。
土屋さんは現在名古屋市西倫理法人会の会長でもあり、どんな話なのか期待をしていた。

いわゆる「倫理」の話しというより、自身の体験談であり、楽しく聞かせてもらった。
肩に力が入ってなく、淡々と話されていたが、随所に「金言」が散りばめられており、さすがに20年近いキャリアのある人は違う。(平成2年に入会されたとの事である。)

二回続けて聞いたが、内容は全く違うものの、そのスタイルが独特であることを感じた。

「講話」であり、一般的には「ストーリー」というものがある。
体験談でも年代順に紹介し、「そして今」・・・というようなまとめがあったり、まくらで興味を引くような話題を取り上げ、聞き手の注目を集めてから本題に入るとか、それなりの流れがある。

昨晩のナイトセミナー、そして今朝のモーニングセミナーでは、その「流れ」がなかったように思う。
かといって、主張点が曖昧という訳ではない。
思わずメモをするような言葉も沢山あった。

聞きやすさという点からも、評価される内容、話し方であった。


いろいろと考えたが、私なりの結論は「小咄集」であったのでは・・・と。
食事の時、「落語を聞くのが好きだ」、といってみえたことを思い出し、沢山の「小咄」を聞かせてもらったと感じた。

「こばなし」を「小咄」と書いたが、例の如く広辞苑を開き「漢字源」で「はなし」を調べたからである。

「話」、「噺」、「咄」の三つの漢字がある。
「話」・・・《口をあけて、よどみなくものをいう。》とある。「ものをいう」ということの総称のようだ。

「噺」・・・《はなし。珍しい物語。「おとぎ噺(ばなし)」》とある。

「咄」・・・《はなし。昔話や落語。「小咄(こばなし)」》とある。

このような説明を見て、「土屋式トーク」は、まさに「小咄集」であったと思う。

思い出してみるに、昨晩も今朝も、話のスタートに、「この時間を楽しんでほしい・・・」という言葉があったが、ひょっとすると綿密に仕組まれていたのかもしれない。

お陰で、楽しい時間を過ごせたが、私には新しい「話のスタイル」を発見した思いである。


メモを読み返してみたが、書き留めた言葉それぞれは素晴らしいものであるが、前後の関係は全く思い出せない。
しかし、人柄や純粋倫理を幾つか実践されていることはよく解ったし、心にも残った。


一点の曇りもない心で、倫理に取組まれている姿こそが我々に最も訴えたいことだったかもしれない。
なかなか真似のできないことである。


posted by 伊藤保徳 at 14:39| Comment(0) | 日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月03日

人事考課

日本経済新聞の昨日(2月2日)の夕刊に、『人が人を評価する』という一文があったが、私の考えとは少し違うので紹介する。

夕刊一面の「明日への話題」という欄で、京都銀行頭取の柏原康夫氏が寄せているものだが、「人事考課」の難しさと共に、京都銀行での実施内容が紹介されている。

《長い人事部時代に最も苦痛を感じていたのが人事考課である。人が人を評価する難しさを痛感していた。どんなに公平に、同一の尺度で評価したつもりでも、評価される人にとって百パーセント納得がいくものではない。》・・・こういう書き出しで、先ずは「人が人を評価することの難しさ」を吐露されている。

次に、人事考課の目的を確認すると共に、一時期話題となった成果主義について「見直し機運」のあることを指摘の上、自社の人事考課の内容を紹介している。

その内容は、一言で言えば、「複数評価」というもので、一次評価を3〜5人の複数で行い、支店長が二次評価を行う。その結果をもって人事部長と面談、人事部の持つ統一尺度で最終決定をするというものである。

そして、現状を見て「行内の納得性は高いように思われる」、としながらも、《どこまでいっても不満の残るものである。神の手に委ねられないものだろうか。》と結んでいる。


私も人事関係の担当が長く、「人事考課」に悩んだ時期がある。
その第一は「公平性」という点である。

我社には「やった人が報われる」という、評価の基本があるが、それを「公平性を貫く」、と考えると「復数評価」とか、「多面評価」という手法が思いつく。
しかし、価値観の異なる「人」に、絶対的な公平性を求めること自体が不可能であることを感じ、「納得性」を高めようと考えた。

次に「評価の対象」である。
「人事考課」とは、本来その人の「成績」を評価するものであるが、ともすれば、「その人」を評価してしまう上位者が多いという問題がある。

こうした問題を感じながら、たどり着いたのが「目標による管理」である。
そのベースにあるのは、「能力・成果主義」であり、「能力という可能性」と「活動結果としての成果」の両面を面談によって評価をしている。


「納得性」が高まっているか否かは、「意識調査」によって確認しているが、まだ十分とはいえない。それをふまえて「管理者研修」のプログラムを用意している。
この方法を5〜6年続けている。

最近、改めて「論語」の勉強を始め思うところは、「納得」とは「信頼感」を基本に置くべきではないかと感じている。
上位者との信頼感があればこそ、挑戦的目標を自ら設定できるし、その結果に対する評価も納得できるものである。

また、評価の対象を「働くこと」全般にするべきだとも思う。
「働く」とは、文字通り「傍を楽にする」ことである。職場における全ての活動を「働き」としてみた時、その一所懸命さは間違いなくその人を成長させているといえよう。

その成長プロセスを評価することが、「人づくり」を促進することになる。
まさに、「人の成長は仕事(働き)を通じて」であり、「成長なくして成果なし」である。


評価することは難しい。
しかしリーダーたるものその責任から逃れることは出来ない。


「評価」することに、「成長を願う心」を持ったとき、信頼感が生まれ、納得性がより高まるものだと思う。
posted by 伊藤保徳 at 07:25| Comment(0) | 経営に関して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月02日

伊勢神宮参拝

昨日の午後から伊勢神宮に出かけた。

我社の本社には、「暁神社」があり毎年年の初めには、安全祈願祭を執り行っているが、その社には、金毘羅宮、伊勢神宮、そして瀬戸の産土神である深川神社のお札が納めてある。

昨年までは、相談役が伊勢神宮を参拝し、お札を受けてもらっていたが本年は私が参詣することにした。

個人的にも随分久しぶりである。

最初に参詣したのは小学校の修学旅行であったが、その後数回しかお参りしたことはなかった。


昨日の午後自宅を出て、午後4時過ぎに「外宮」に、そして今朝「内宮」に参詣した。
4年後には20年に一度の式年遷宮が控えており、諸々の準備に取り掛かられているようだ。

今朝のニュースで知ったことだが、昨日の夕方は式年遷宮に向け、橋の架け替えの始まる宇治橋に感謝する「宇治橋渡納式」が行われたようで、八千人以上の人が参加したとの事であった。

中日新聞朝刊にもそのニュースがあった。
《清流・五十鈴川にかかる宇治橋は、「聖と俗の世界を結ぶ」とされ、この二十年間でおよそ1億人が利用。》とある。

今朝はその宇治橋は、ロープで遮断され、少し下流の所に架けられた仮橋を渡って本宮に行った。
橋の脇に、今日二月二日に「宇治橋萬度麻奉下式」が行われるという立て札があった。
字も読めなければ意味もわからなかったが、参詣を済ませて頃、神職の人たち十人くらいが何かをやっていた。

報道の腕章をつけた人やテレビカメラなどもあり、何ごとかと思ったがどうやら「立て札」にある神事が始まるようで、念入りにリハーサルをしているところであった。

聞けば、橋の守り神であるお札を外す神事との事である。
欄干にある擬宝珠(ぎぼし)を外し、それを葛篭(つづら)にいれて運び出す、という内容のようだ。


久しぶりに出かけ、心が洗われたようだ。
樹齢何百年と思われるような杉の大木、水の打たれた玉砂利の参道、苔むした萱ぶきの屋根などなど、地域全体が聖地を思わせる。
朝早いこともあり、参詣者はほとんど見えない。

静寂だけではなく、何かがそこに満ちているような感覚を持った。


一年に一度くらいは参詣しなければ・・・。そんな思いを抱きながら帰ってきた。
posted by 伊藤保徳 at 14:28| Comment(0) | 日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月01日

論語考C

論語についてのいろいろな本を読んでいる。

その中の一つに、『右手に「論語」 左手に「韓非子」』(守屋洋著、角川マガジンズ、2008、10、25)という本があるが、とても興味のある内容であった。

「論語」は性善説、そして「韓非子」を性悪説として取り上げ、《バランスよく生き抜く方法》とした実践論である。

最初に、「性善説」「性悪説」をとりあげ、それぞれの特長を示しながら、二つのバランスが必要だと説いているが、私には納得できるものである。

性善説ばかりでは「脇が甘くなる」し、性悪説も行き過ぎると問題も多い。

日本の国民性から言えば、昔から「性善説」が主流であり、「論語」が長く愛読されている理由であろうが、組織の運営という観点から見ると「韓非子」にある言葉も理にかなっているのである。

「論語」「韓非子」それぞれから40の文章が引用され、著者の解説が述べられているが、読み終えて両方とも必要だという思いになる。


性善説、性悪説二者択一を考えるのではなく、「論語」は人間学、「韓非子」は統治学、というように考えると、場面場面において使い分けることが可能になる。

今、改めて「リーダーシップ」について思考しているところであり、この本から得たものは多い。
リーダーシップは、リーダーの人間的側面と、管理的側面があるが、これもそのリーダーなりのバランスが重要である。

メンバーの気持ちを一つにして、目標に挑戦させるのは「仕組み」ではなく、「仕掛け」である。
そして効果的な仕掛けとは、「信頼性」に裏打ちされたものである。ということは「論語」的ということになろう。

一方、組織の責任や目標の達成をするためには、合理的な「仕組み」が必要である。
この場合は、「韓非子」的な方策が必要である。


まだ十分には理論構築は出来ていないが、「リーダーシップ」をこのように分けて考えることによって、少し前進できたと思っている。

あわせて「論語」の読み方も。
posted by 伊藤保徳 at 10:19| Comment(0) | 人づくり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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